復讐するは我にあり

作品鑑定
邦題復讐するは我にあり
英題Vengeance Is Mine
公開年1979
製作国日本
監督今村昌平
主演緒形拳

概要

映画『復讐するは我にあり』は、佐木隆三の同名小説を原作とし、今村昌平が映画化した1979年の日本映画である。松竹の作品紹介でも、稀代の殺人鬼・榎津巌の犯行の軌跡と人間像を描く作品と説明されている。第3回日本アカデミー賞では最優秀作品賞と最優秀監督賞を受賞した。

『復讐するは我にあり』という題名は、少なくとも観客に大きな期待を抱かせる。裁き、報い、怒りの帰結、そうしたものを正面から扱う映画に見える。しかも題名の元になっているのは聖書の句であり、「復讐は人間の仕事ではなく神の領分に属する」という重い意味を帯びている。文春の解説でも、この題名は犯人を安易な正義で断罪せず、事件全体を調べて理解しようとする姿勢と結び付けて紹介されている。

しかし、実際に映画が見せるものは、その題名が呼び込む主題とほとんど噛み合っていない。榎津巌は、復讐心に取りつかれた男ではない。人に何かを奪われ、その怒りに突き動かされて相手へ報いようとする人間でもない。金と保身のために人を殺し、口先で取り繕い、逃げ回るだけの俗悪な犯罪者である。専売公社の集金人二名、弁護士、旅館の女将とその母親。動機に深みはなく、そこに見えるのは欲と打算だけである。

そのため、この作品はリベンジ映画として見た瞬間に大きく崩れる。被害は重い。榎津という男は、観客の怒りを集める対象としては十分に機能する。だが、その怒りを引き受け、相手へ向け、決着まで運ぶ主体が存在しない。被害者遺族の怒りも、社会的な裁きの手触りも、国家による処刑の重みも、きちんと物語の中で回収されない。題名に「復讐」とあるのに、復讐劇の骨格そのものが立っていない。

しかも、これは単に「復讐映画ではない」という話だけでは済まない。映画として見ても、榎津の俗悪さが人物理解の深まりに変わっていく感じは弱い。名優の演技と名匠の演出があることはわかるが、それがそのまま映画の中身の充実にはつながっていない。榎津という最高の燃料を用意しながら、その燃料を物語としてどう使うのかが弱い。被害者側の怒りを描くでもなく、榎津の内面を掘るでもなく、裁きの場面を正面から引き受けるでもない。その結果、格調高い題名と中身の落差ばかりが残る。

要するに、この作品は題名が大きすぎるのである。もし身も蓋もなく『殺人鬼榎津巌』のような題名であれば、俗悪な殺人犯の逃亡記として受け止めれば済む。だが実際には『復讐するは我にあり』という、宗教性も倫理性も漂う看板を掲げてくる。そのため、観客はそこにあるはずの大きな問いを探してしまう。ところが画面の中身は、その看板に見合うだけの強度を持っていない。そこに強い不一致がある。

※採点基準の概要は「リベンジ映画鑑定要領 Ver1.3(概要)」をご覧ください。

1 不条理(被害者の無実性)5/5
2 喪失(奪われたものの重さ)4/5
3 被侮蔑(加害者からの見下し)5/5
4 標的(復讐対象の明確さ)1/5
5 敵の悪(情状酌量の余地)5/5
6 後味(結末のカタルシス)1/5
7 配役(復讐者の説得力)1/5
8 演技(感情の爆発度)3/5
9 演出(執行のスタイリッシュさ)2/5
10 伏線回収(因果応報の納得感)1/5
11 倫理の納得感(観客の同調率)1/5
12 敵の歯ごたえ(難易度と落差)1/5
基礎点合計(1〜12)30/60

基礎点の根拠

1 不条理:5/5

榎津に殺される側には、基本的に重大な落ち度がない。専売公社の集金人、弁護士、旅館の女将とその母親。いずれも榎津の金目当てと保身の犠牲であり、不条理は極めて大きい。

2 喪失:4/5

一人ひとりの被害は重い。命を奪われ、家族も生活も破壊される。ただし映画は、その喪失を被害者側の視点から積み上げる作りにはなっていない。被害規模は大きいが、観客の感情として強く蓄積しにくい。

3 被侮蔑:5/5

榎津は相手を財布や障害物としてしか見ない。人を人として扱わず、目先の金と保身のために平然と殺す。被害者への敬意も恐れもなく、ここはかなり濃い。

4 標的:1/5

この項目で作品は決定的に崩れる。誰かが特定の相手へ怒りを集中させる構造がない。榎津は多くの人に恨まれて当然の男だが、その怒りを背負って報復に向かう主体が映画の中に存在しない。

5 敵の悪:5/5

金目当てと保身のために人を殺す。しかも罪悪感も理念もなく、口先だけは達者である。悪の質は低く、俗悪で、救いがない。

6 後味:1/5

最後に残るのは、報いでも救済でもなく、空虚さである。骨を撒いて終わる画面に、復讐の完遂も、裁きの手応えもない。リベンジ映画として見た場合、ほぼ何も回収されない。

7 配役:1/5

緒形拳は榎津巌という俗悪な男をよく演じている。だが、項目7は復讐遂行者としての顔を問う項目である。この映画には、そもそも復讐遂行者が立っていない。そこでは点にならない。

8 演技:3/5

緒形拳、三國連太郎、倍賞美津子の芝居には見応えがある。ただし、その演技の厚みが復讐劇としての感情の流れを作っているわけではない。映画全体の重さを支えてはいるが、リベンジ映画としての感情伝達は弱い。

9 演出:2/5

冷たく乾いた描写や、榎津の逃亡を追う構成には手際がある。ただし、それが復讐の見せ場や報いの瞬間を作る方向には働いていない。リベンジ映画として見ると、演出の重点がかなりずれている。

10 伏線回収:1/5

復讐劇としての因果はほぼ組まれていない。前半で置かれた材料が、終盤の報復の必然へ収束する構造ではない。あるのは榎津の逃亡記の流れであって、復讐の設計ではない。

11 倫理の納得感:1/5

観客が誰かの報復に肩入れする構造そのものがない。榎津への怒りは生まれるが、その怒りを託す主体が不在である。題名は大きいが、復讐の倫理を問う映画としての輪郭はかなり弱い。

12 敵の歯ごたえ:1/5

榎津は逃げ回るし、捕まりにくい。だが、それは復讐者から見た難敵ではない。そもそも対決構造がない以上、この項目も立ちにくい。

最終鑑定点:30/300(基礎点合計×執行精度)

格付け:D級(不発)

タイトルだけ見て予備知識なしに観たら、当然リベンジ映画を期待する。ところが実際に出てくるのは、復讐劇ではなく、榎津巌という俗悪な殺人犯の逃亡記である。

『復讐するは我にあり』は、復讐映画として不発なのではない。復讐映画の題名を掲げながら、復讐劇の骨格そのものを持っていない。そのため、リベンジ映画として測ると極端に低い点になる。

しかも問題はそれだけではない。『復讐するは我にあり』は、復讐映画ではない。では榎津巌という殺人犯の逃亡と俗悪さを通じて、人間や社会の何かをえぐる映画として成立しているかと言えば、そこも弱い。俗悪さは見えるが、それが人間理解の深まりにも、社会批評の切れ味にも十分に変わっていかない。題名の大きさに対して中身が追いついていないだけでなく、殺人犯の逃亡記として見ても、作品の重心は最後まで定まりきらない。

30点、D級。不発。

この作品は、復讐映画の名を借りた反・復讐映画ですらない。むしろ、復讐という看板を掲げながら、実際にはその中身をほとんど持たない作品に見える。そこがこの映画への最大の不信感である。

本作の鑑賞後、筆者の記憶に残ったものは何か。復讐の快感でも、裁きの手応えでも、怒りの余韻でもない。倍賞美津子の肉体描写である。映画が観客の記憶に刻む内容こそが、その映画の実質である。その観点から言えば、本作が何を達成したかは明白である。

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