作品情報
| 邦題 | さまよう刃 |
| 原題 | さまよう刃 |
| 公開年 | 2009 |
| 製作国 | 日本 |
| 監督 | 益子昌一 |
| 主演 | 寺尾聰、竹野内豊、伊東四朗 |
概要
『さまよう刃』は、妻を亡くし、唯一の家族であった娘を誘拐されて殺された長峰が、匿名の電話をきっかけに犯人の居所をつきとめ、自らの手で制裁を加える映画である。長峰は犯人のひとりを部屋で待ち伏せして刺し、逃亡した主犯の菅野を追って長野へ向かう。犯人は未成年であり、少年法に守られ、捕まっても重い刑罰を受けない司法制度に疑問を持つ長峰は、自らの手で犯人に報いを受けさせるべくもう一人の犯人を追いかけるが、警察も長峰や菅野の情報を得て二人の確保に動く。
鑑定報告(Ver 1.4基準)
※採点基準の概要は「リベンジ映画鑑定要領(概要)」をご覧ください。
| 1 不条理(過失相殺) | 5/5 |
| 2 喪失(損害規模) | 5/5 |
| 3 被侮蔑(ナメられ) | 4/5 |
| 4 報復対象(安定性) | 5/5 |
| 5 敵の悪(邪悪性) | 5/5 |
| 6 後味(生存希望) | 1/5 |
| 7 配役(適正顔) | 3/5 |
| 8 演技(感情伝達) | 3/5 |
| 9 演出(爆発の美学) | 3/5 |
| 10 伏線回収(因果応報の設計) | 3/5 |
| 11 倫理の納得感(観客同調) | 3/5 |
| 12 敵の歯ごたえ(障害強度) | 3/5 |
| 基礎点合計(1〜12) | 43/60 |
基礎点の根拠
1 不条理:5/5
長峰に落ち度はない。娘は帰り道に突然拉致され、長峰は自ら踏み込んだ犯人の部屋で凄惨な加害映像を見ることになる。
2 喪失:5/5
妻が亡き後、長峰にとって唯一の家族である娘を暴行されたあげくに殺された、その喪失感は計り知れない。
3 被侮蔑:4/5
加害少年たちは娘に麻薬を注射して暴行し、その様子を撮影し、死体は河川敷に遺棄するなど被害者に対する配慮は一切無い。
4 報復対象:5/5
報復対象は明確で娘を殺した少年二人である。
5 敵の悪:5/5
拉致、暴行、撮影、殺害、遺棄と、悪の具体性も残虐性も最大級で、情状酌量の余地がない。
6 後味:1/5
長峰は犯人のひとりは始末したものの、警察に撃たれて死亡し、主犯への制裁を果たせず。主犯の菅野の裁判が始まるところで映画は終わるので判決は不明。長峰や娘の無念を考えると後味は悪い。
7 配役:3/5
寺尾聰の素朴な雰囲気が、犯人を殺すという設定とギャップがあり、うちに秘めたる執念がより強くにじみ出ている。
8 演技:3/5
寺尾聰や伊東四朗他ベテラン陣の演技は安定しており安心して観られる。竹野内豊の無表情はそれはそれで悩める刑事という感じで良い。
9 演出:3/5
BGMが控えめで無駄に場面を煽らない作りが良い。ペンションの主人長峰を逃がす場面は無理がある。残念なのは犯人の少年達に対する胸糞レベルが上がりきらないので、寺尾聰に対する同情も薄いまま映画が終わってしまうことだ。
10 伏線回収:3/5
匿名の密告の主、刑事たちの温度差、長野への逃走など、後半につながる材料は置かれている。
11 倫理の納得感:3/5
長峰の怒りには十分同調できる。まだ中学生の一人娘を残忍な方法で殺された父親の私刑に異論は無い。
12 敵の歯ごたえ:3/5
犯人を追う長峰の障害となるのは、警察の捜査網である。
13 決着成立度(倍率): ×2
(理由: ここに理由を書く)
最終鑑定点:86/300(基礎点合計×決着成立度)
格付け:D級(不発)
総評
『さまよう刃』は、燃料だけ見れば最大級である。娘を奪われた父の怒り、加害少年たちの外道ぶり、そしてその加害者を守る少年法の壁。復讐映画として動き出すだけの材料は揃っており、設定の強度は邦画の中でも突出している。
だが、犯人や少年法に対する怒りや理不尽さはカタルシスとは無縁のままであり、観客に疑問を投げかけてこの映画は終わってしまう。執行カタルシス型リベンジ映画として観ると不発に終わる。
雑記
観客の犯人に対する怒りの燃料はあくまで設定上のものであって、観客がそれをリアルな感情として受け取るには、失われるものへの愛着が先に成立していなければならない。娘と長峰の日常、二人の関係の密度、その幸福の手触りが序盤で十分に積まれていないと、娘が死んでも「設定上の喪失」にしかならない。設定された燃料がよく燃えるかどうかは、娘を失う前の熟成が必要だ。
例えば『アジョシ』が上手いのはそういう部分で、ウォンビンと少女の関係をある程度時間をかけて丁寧に積み上げるから、少女が連れ去られた瞬間に観客の怒りが自然に点火する。ジョン・ウィックも犬一匹に対してあれだけカタルシスが成立するのは、亡き妻との繋がりという背景を短時間で的確に見せているからだ。もちろんキアヌ・リーブスの演技力もあろうが。『悪党に粛清を』にしたって序盤家族再会のシーンは短い時間で必要十分に燃料を積み上げといて、さらにデラルーの極悪ぶりをきちんと見せるからこそ、娘と息子の殺害シーンはなくてもよく燃える燃料になるわけだ。
本作の場合、娘が死んだ時点ですでに観客との距離がある。そこから長峰がどれだけ追い続けても、感情が追いつかない。犯人への憎悪も同じ構造で、被害の詳細は説明されても、それが映像として観客の胸に刺さる見せ方になっていなければ胸糞にならない。
結果として燃料は最大級のはずなのに、実際に観客の中で燃える量は平均以下という、設定と体験の乖離が起きている。寺尾聰個人の演技より前に、脚本と演出が観客の感情を把握し切れていない印象だ。人物描写の失敗は、後から取り返しがきかない。


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