Vフォー・ヴェンデッタ(2005年アメリカ・イギリス他)

Vフォー・ヴェンデッタ(2005年アメリカ・イギリス他)
邦題Vフォー・ヴェンデッタ
原題V for Vendetta
公開年2005
製作国アメリカ・イギリス・ドイツ
監督/脚本ジェームズ・マクティーグ/ウォシャウスキー姉妹
出演ヒューゴ・ウィーヴィング、ナタリー・ポートマン

概要

『Vフォー・ヴェンデッタ』は、ノースファイア党独裁下の近未来英国で、ラークヒル収容所の唯一の生存者Vが、自身を実験台にした加害者たちに復讐する映画だ。

V(ヒューゴ・ウィーヴィング)は20年前、ラークヒル強制収容所でウイルス兵器の人体実験の被験者となり、唯一生き残った。実験の副作用で身体能力が異常に発達。収容所を爆破して脱出。本名は不明、自分が誰だったかも記憶していない。残ったのは、加害者5人の顔と名前、そして隣房で死んだ女性ヴァレリーの手紙のみ。

復讐対象は5人。ルイス・プロセロ(ラークヒル所長、現BTNテレビの「ロンドンの声」)、リリマン司教(ラークヒルの監視役、現在は児童性愛者の聖職者)、デリア・スリッジ博士(実験責任者、改名して検視官として体制側に潜む)、サトラー首相(政治的後ろ盾、現高位首相)、クリーディ(秘密警察長官、自演テロ計画の中核にいた男)。この5人は、ラークヒル収容所の人体実験、セント・メアリーズ事件、ノースファイア党独裁体制の成立に関わる中枢人物たちである。

物語はBTNテレビ局のアシスタント、イヴィー・ハモンド(ナタリー・ポートマン)が夜間外出禁止令違反で秘密警察に襲われ、Vが救出する場面から始まる。同夜、Vは中央刑事裁判所を爆破し、テレビ局を制圧して電波ジャック、1年後の11月5日にウェストミンスター宮殿前へ集まれと国民に呼びかける。

※採点基準の概要は「リベンジ映画鑑定要領(概要)」をご覧ください。

1 不条理(過失相殺)5/5
2 喪失(損害規模)5/5
3 被侮蔑(ナメられ)5/5
4 報復対象(安定性)4/5
5 敵の悪(邪悪性)4/5
6 後味(生存希望)4/5
7 配役(適正顔)5/5
8 演技(感情伝達)3/5
9 演出(爆発の美学)4/5
10 伏線回収(因果応報の設計)5/5
11 倫理の納得感(観客同調)2/5
12 敵の歯ごたえ(障害強度)4/5
基礎点合計(1〜12)50/60

基礎点の根拠

1 不条理:5/5
Vはラークヒル収容所で人体実験の被験者にされ、身体、記憶、名前、人生の全てを奪われた。彼に予見可能性も落ち度もない。完全不条理。

2 喪失:5/5
Vが失ったのは家族や恋人ではなく、自分自身の存在そのもの。誰だったか思い出せず、顔も焼けて失った。隣房の女性ヴァレリーもラークヒルで死んだ。アイデンティティ完全剥奪。

3 被侮蔑:5/5
ラークヒル収容所の被験者は、移民、同性愛者、ムスリム、政治犯として「望ましくない者」と分類された。彼らはウイルス兵器開発の実験台にされた。加害者たちは戦後も体制側で出世し、被害者の存在自体を社会から消した。

4 報復対象:4/5
報復対象はラークヒル5人。だが「何に報いる話なのか」が分散している。Vの被害への報い、ヴァレリーへの愛の決着、セント・メアリーズの10万人への報い、国民の解放、イヴィーへの継承。執行の各場面で動機が変わる。プロセロは政治的悪役への処罰、リリマンは性犯罪者への処罰、スリッジは自らの行いを悔いる科学者への安楽死的復讐、サトラーは独裁者の打倒、クリーディは思想的勝利の宣言。観客は各場面で微妙に異なる感情で受け取らねばならず、1本の強くて太い支柱が見当たらない。

5 敵の悪:4/5
ラークヒル人体実験、セント・メアリーズで10万人虐殺、宗教過激派への偽装、製薬会社での暴利、警察国家の樹立。情状酌量の余地はない。だが観客に「胸糞」を体感させるような具体的描写が薄い。プロセロの吠え方は風刺的、リリマンの児童性愛は対象が成人女優に置き換えられ直接の被害シーンはない、スリッジはVが来ることを受け入れ、謝罪して死ぬ、サトラーは大画面の独裁者で個別被害者への加害シーンがない。ノースファイア体制下の抑圧は描かれるが、復讐の燃料として観客に強く積み上がるほどではない。

6 後味:4/5
復讐は完遂、5人全員死亡。ノースファイア体制も崩壊が確定する。だがV自身も死ぬ。だがイヴィーがウェストミンスター宮殿爆破を完遂し市民革命が達成される構造があり、完全絶望ではない。

7 配役:5/5
ナタリー・ポートマンは坊主頭シーンを含めて、無垢な少女から覚醒してVの協力者となる起伏の激しい役がはまっている。スティーヴン・レイはフィンチ警部として体制側に仕え、苦悩しながらも正義の筋を通す役としてはまっている。

8 演技:3/5
全体的に観客の感情を腹で引きずり込む濃度が薄い。Vの怒りはマスクの下で抑制され、観客と同期する場面がない。ナタリー・ポートマンの恐怖と困惑から強い意志への変化は伝わるが、家族を殺した敵への怒りが育つ過程が弱いため、表面的なものに見えてしまう。彼女だけではなく全体的な問題だ。

9 演出:4/5
本作の演出は、思想と象徴の視覚化、政治寓話としての美術、クラシック音楽による格調、ハリウッド流のアクション、これらを多層に重ねた情報量の多い設計になっている。ただし思想と象徴の視覚化に偏っており、リベンジ映画として観客が怒りの燃料を積み上げる演出ではない。

10 伏線回収:5/5
冒頭のガイ・フォークスのナレーションが、Vの死と思想の継承で完璧に回収される。スカーレット・カーソンの薔薇が、Vが各犠牲者の遺体に置く花、ヴァレリーがルースに育てさせた花として複層の意味で繰り返され効果的だ。

11 倫理の納得感:2/5
Vの個人的復讐に対して概ね共感できるものの、その手段に重大な懸念がある。最大の問題はイヴィーへの偽装拷問。Vはイヴィーを「教育」「恐怖からの解放」のために、本人の同意なく数週間監禁・拷問した。これは現代の倫理から見れば監禁と心理操作。映画はVの方法を肯定的に描くが、観客に違和感が残る。さらにイヴィーがVを許し、最終的に愛するに至る過程が、ストックホルム症候群的な変容にも見える。Vとイヴィーの愛も、年齢差、関係性の歪み、マスクで顔が見えないことが重なって観客の納得を得にくい。Vは目的のためなら手段を選ばないクリーディと構造的に同じ位置に立つ場面があり、Vの倫理的優位性が揺れる。

12 敵の歯ごたえ:4/5
加害者5人や体制全体への対決の難易度は構造的には高い。ただし個別の対決時の歯ごたえは薄い。プロセロは老人で就寝中、リリマンは性愛中の脆弱な瞬間、スリッジは自ら受け入れる、サトラーは地下のシェルターから引きずり出されて代行で射殺。クリーディとの最終決戦のみが唯一歯ごたえのある敵との戦闘シーンだ。

最終鑑定点:200/300(基礎点合計×決着成立度)

格付け:C級(佳作)

原題『V for Vendetta』は、「Vとは復讐のVである」という意味合いを持つ。Vは個人名であると同時に、5号室、11月5日、ガイ・フォークス、そして復讐そのものを背負う記号である。顔も名前も失った男に残ったものが復讐だけであることを、タイトルがそのまま示している。

Vは1934年のロバート・ドナト主演版『モンテ・クリスト伯』をお気に入りの映画としてイヴィーに見せる。シャドーギャラリーでイヴィーと最初の食事をする時に一緒に観るのもこの映画。Vはエドモン・ダンテスの台詞を引用し、剣士的振る舞いを継承する。ラスト、イヴィーがフィンチに語る最後のナレーション「彼はエドモン・ダンテスだった」で、Vは復讐者としての文脈に明確に位置付けられる。モンテ・クリスト伯はエドモンが自分をはめた奴らに復讐する映画だ。つまり『Vフォー・ヴェンデッタ』は、Vをモンテ・クリスト伯の系譜に置いた個人復讐映画なのだ。にもかかわらず、本作はリベンジ映画として観た時に観客の心に届きにくい。理由は本作の各所に分散している。

第一に、Vの被害が観客に体感されない。そもそもVがなぜラークヒルに送られたのかは、映画でも原作でも明示されない。彼が何をされたかは分かるが、何者として捕まり、何を奪われたのかがよくわからない。ラークヒル収容所のフラッシュバックもデリアの日記朗読と同期した断片に留まる。Vの被害は「事実」として示されるが、胸クソにつながる感情を観客に体験させる作りにはなっていない。ラークヒル収容所のフラッシュバックはデリアの日記朗読と同期した約2分30秒の断片のみだ。

第二に、Vの目標は5人に対する復讐なのだろうが、V自身の被害、ヴァレリーの無念、10万人の犠牲者、体制に対する批判、ノースファイア下の国民の苦しみ、イヴィーに対する共感など、Vの内なるものが全体に向きすぎて何と戦っているのかの具体性が弱まり、結果的にカタルシスに必要な燃料の積み上げも弱まってしまう。

第三に、敵への怒りが場面として積み上がりにくい。ラークヒル5人は概念的には最悪だが、観客が腹を立てる具体的な描写が薄い。プロセロの吠え方は風刺的、リリマンの児童性愛は直接の被害シーンがない、スリッジはVが来ることを受け入れ、謝罪して死ぬ、サトラーは大画面の独裁者で個別の加害シーンがない。ノースファイア下の抑圧は描かれるが、復讐の燃料として厚く積み上げられる構成ではない。だからクライマックスで市民がVマスクでウェストミンスター宮殿前に集まる場面が、視覚的には壮大でも、観客の中に蓄積された動機がないため唐突に見えて共感しづらい。絵面と音楽で無理矢理終わらせた感が否めない。

第四に、Vの「教育」の倫理が観客の同調を崩す。Vはイヴィーを本人の同意なく数週間監禁・拷問した。「恐怖からの解放」として正当化されるが、現代の倫理から見れば心理操作。Vが「目的のためなら手段を選ばない」クリーディと同じ位置に立つ場面があり、Vの倫理的優位性が揺れる。Vとイヴィーが互いに愛するに至る過程も、イヴィはストックホルム症候群としか見えず、観客の納得を得にくい。

第五に、サトラーをVが直接殺さず、クリーディに代行させる。ウェストミンスター宮殿爆破もVが実行せず、イヴィーに譲る。Vは理念のために死んで人の記憶に残る英雄として描かれる。だがVのリベンジ映画として見るとカタルシス的に弱くなってしまうのは致し方ない。また、要所でVのテーマ曲として使われるチャイコフスキーの1812年序曲も選曲に違和感がある。国家の体制に対する批判や思想を描いたのであればなおさらだ。1812年序曲は本来、ロシアの防衛戦争・国家的勝利の曲だ。つまり国家の体制を守ったことを祝う曲だ。独裁体制を壊す側のVのテーマとしては、政治思想の意味より、爆破の見栄えと祝祭性を優先した選曲に見えてしまうのが残念だ。これをあえて皮肉として使ったとであれば、それはそれでわかりにくい。

つまり本作は執行カタルシス型リベンジ映画として観てしまうと、テーマの割には内容が薄いのはともかくとして、期待したほどのカタルシスは味わえないということになる。ただ、全体的な雰囲気作りやテンポの良さ、Vの登場の仕方や敵の詰め方、アクションシーンのスピード感はさすがである。ラストの仮面を着け立ち上がった国民の集結とウェストミンスター宮殿の爆破はあまり深く考えなければ感動的なシーンなのだろう。

雑記

ガイ・フォークスのマスクは本作公開後に匿名の個人が権力に抗議するためのデモ活動でよく使用されるようになった。本作はリベンジ映画としての出来はともかく、仮面を反権力のアイコンになったという意味では本作の影響力は大きい。だが、反資本主義や反権力の象徴として使われているにもかかわらず、売れれば売れるほどワーナーに利益をもたらすという皮肉もある。さらに、匿名性は身を守る武器であると同時に、責任の所在を曖昧にする。また、ガイ・フォークスは近代民主主義を成立させた英雄ではなく、17世紀のカトリック陰謀事件の実行犯だ。史実はさておき、表面的な映画の記号だけが独り歩きした面もある。それでも、この仮面が「顔を消して権力に向き合う」ためのアイコンとして意味があることは間違いないだろう。

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